計画的偶発性人生への道標

大学・大学院で【ゲーム理論】を学び、【キリマンジャロ登頂(5895m)】や【24時間山岳耐久レース(ハセツネ)】では悟るも直ぐに煩悩に悩まされ、【戦略コンサル(ひよっこ)】では容量悪く苦戦するも周りの超優秀なメンバーに恵まれ、【起業】においては各界のプロフェッショナル達におんぶにだっこで何とか生き延びている、そんなちょっぴり人と違う人生を歩みつつある筆者が、日々考えたことを自分なりの視点でまとめていきます

後世に対する使命感理論

自分が事故/災害に巻き込まれたとき、自分の「親」か自分の「子」か、どちらかしか助けられないとしたら、どちらを助けるだろうか?

 

この問題の買いに一つの方向性を示してくれるのが今回の理論である。
前回記事の貢献心は本能理論 - 計画的偶発性人生への道標と同様、本理論についてもぐるなび創業者の滝さん言葉から引用している。実際にこの内容については直接ご本人と討議をさせてもらったので、その中での示唆も含めて話していきたいと思う。(因みに滝会長は70代後半で囲碁8段の腕前である)

これは、滝さんが25歳のころに巡り合った下記の言葉に起因する。

 

(原文)
"人は後世に対しては義務こそあれ権利はない。また前世に対しては権利こそあれ義務はない"

 

一瞬少し混乱するがちょっとずつ解説する。この言葉における、前世・後世の解釈はこうである。私たちは様々な人に囲まれて生活を営んでいる。その中では親や上司など、「その人たちの意見で自分の生活に影響を及ぼしてしまう立場の人」や、自分の子供や部下など、「自分の意見により影響を及ぼされてしまう立場の人」たちがいる。この前者を"前世"、後者を"後世"というと、先ほどの言葉は下記のよう理解できる。

 

(解釈後)
"人は自分が影響を及ぼす相手に対しては義務こそあれ権利はない。また自分に影響を及ぼすような相手に対しては権利こそあれど義務はない"

 

ここで、冒頭の問いに対する一つの解は出ているのではないだろうか。この理論においては、親を助ける権利はあるが、子を助けることは義務なのである。これは介護問題や教育問題などの家庭の様々なことに応用して思考実験をできる。

さらに、"後世"への義務感を『使命感』と定義するとより腹落ちが良い。自分が影響を与えうる人であれば、それが好きな人であれ嫌な人であれ、惜しみなく守るということである。その『使命感』で得られるささやかな幸せを自然に受け入れれば、より良い人生、よりよい社会につながるのではないかと考える。

子を持つ親は強いというが、『使命感』は普遍なキーワードである一つの証左ではないだろうか。 

 

ではでは!